法話 安城市根崎町 宝林寺暁天講座にて

 

仏教では宿業ということを説きます。

似たような言葉に宿命とか、運命という言葉がありますが、ここで言う宿業とはちょっと違います。

 宿命とか運命というのは、決定していること。つまり、敷かれたレールの上をいやおうなしに進んでいかなければならない。こういうのが運命とか宿命という考え方です。

 

それに対して、宿業というのは、「自業自得」が原則です。

自分でまいた種は、自分で刈らなければなりません。

これは自分の選択、自分で決定していかなければなりません。

 例えば、本日みなさんが、こうして朝早くからお寺へ足を運ばれたというのは、自らの意志でしょう。

ご院さんに脅迫されて来たなんてことはないですね。

でも、他にも選択肢は、あったはずです。

朝のうちに洗濯をやってしまおうとか、まだ早いから寝とろうと思えば寝とることもできた。ちょっと遠出して名古屋まで買い物に行くこともできた。

いろいろな選択肢がある中で、皆さんはあえて自分でここへ来ることを選ばれたんですね。

 お寺へ足を運ぶ、仏教の教えを聞くということも一つの種まきです。

後にどんな結果が出て、影響を遺すか、これは私たちには分かりません。

けれども行動を起こした以上は、必ず結果が出て後に影響を残します。

 また、これは、種まきだけかというとそうではなくて、私がこうして足を運んだという事実が、結果だという見方もできるんです。

 みなさんも本日ここへご自分の意志で来たというけれど、自分の意志だけで来ることができたかというと、そうじゃないですね。

私の意志で来たけれども、私の意志だけではなかったのです。

 詳しくは、分からないけれども、遠い過去からの深い

(自分の内にある可能性)と、

(外的な条件)が重なり合って、

本日皆さんが、お寺へ足を運ぶという行動となっているわけでしょう。

だからこれは、種まきでもありますけれども、結果でもあるわけなんです。

 だから宿業というのは、宿命や運命のように、はじめから決まっていて、こちらには何の選択肢もないものとは違いますね。

 

そこそれからもう一つ、この因果の道理というものは、大事な道理ですけれども、人が他人に言ってあげることが難しいんです。

 例えば「いじめ」というような問題でも、いじめられとる人に対して、

「今君がいじめられているのは、単なる偶然じゃないんだよ。

そうなるだけの因と縁があったんだ。

考えてもわからないけれど、遠い過去からの深い因と縁があって、いじめられるべくしていじめられているんだ」

なんてこと言ったら大変ですね。

今なら、大騒ぎ!

でも真実はそうなんです。

 

どんな人もいじめられる種を持っていますし、いじめる種も持っています。他人からちょっとキツイこと言われてショボンとするのは、いじめられる種。

ムカッ!とするのはいじめる種です。

こういう心は、誰にでもあります。

 じやあ何でイジメに発展しないかというと、縁がないからです。

ひとたび縁がもよおせば、いじめられる側にも、いじめる側にもなっていくのが私たちなのです。

 

犯罪だってそうです。

どんな人もドロボーの種も持っておるし、人殺しの種も持っているのです。

では、なんでそうならないかと言えば、やはり縁がもよおさないだけなのです。私たちは、ひとたび縁がもよおせば、強盗だって殺人だってやってのける、その時々、条件次第・縁次第で、善人にもなれば、悪人にもなっていく、いわゆる「一切善悪の凡夫人」なのです。

 

 これが仏様から見た私の姿なんです。縁次第でどうにでもなる。

私の心が善いから善いことができるんじゃぁない。心が悪いから悪いことをするんじゃぁない、縁次第なのです。

 

 たとえば、手錠をかけられて、ジャンバーで顔を隠して、パトカーで連行されていく凶悪犯の姿をテレビのニュースで見ますと、私たちは心の中で裁きます。「あんな悪い奴は重い罰を与えてやればいい!」と心の中で裁きます。

でも、よーく考えてみればあの凶悪犯と私のちがいは何か?

どこがちがうのか?

それは、犯罪を犯したか、犯さないかのちがいです。

では、私が犯罪を犯していないのは、どうしてか?

それは私の心がいいからではなく、そういう縁がなかったからなのです。

縁があれば何をしでかすかわからないのが私なのです。

ということは、テレビに映る凶悪犯というのは、異なる条件で生きる私の姿なのです。

「ああ、あの人も、ご縁のちがった私の姿でした」と気づかせて下さるのが親鸞聖人の教えなのです。

 

あなたも凡夫、私も凡夫。

スネに傷持つ、同じ穴のムジナ

だから他人に忠告しにくいのです。

この因果の道理ということは、親でも兄弟でもなかなか言いにくい。

だから私たちは、仏さまの言葉として、

この道理を聞くのです。

 

私たちが仏教の教えを聞くというのは、人の言葉として聞くのではなく、私に呼びかける仏の言葉として聞いていくということが大事なことですね。

 最後に「仏さまのことば」という一文をご紹介したいと思います。今日、申し上げました宿業ということを踏まえてお聞きいただきたく存じます。

 

「仏さまのことば」

お前はお前で丁度良い

顔も体も名前も姓も

お前にそれは丁度良い

貧も富も親も子も

息子の嫁もその孫も

それはお前に丁度良い

幸も不幸も喜びも

悲しみさえも丁度良い

歩いたお前の人生は

悪くもなければ良くもない

お前にとって丁度良い

地獄へ行こうと

極楽へ行こうと

行ったところが丁度良い

うぬぼれる要もなく

卑下する要もない

上もなければ下もない

死ぬ月日さえも丁度良い

仏さまと二人連れの人生

丁度良くないはずがない

丁度良いのだと聞こえた時

憶念の信が生まれます

南無阿弥陀仏


今後の行事

日/曜日 時間 内容 備考
2024年(令和6年)
毎月 第1(日) 午前6時半 おはよう講座 毎月 第1 日曜日
1月 第2 日曜日
中止第3(木) 午前10時~午後3時半 福遊会 毎月 第3 木曜日
10月 12日(土) 午前10時 秋の永代経 法話:戸松 憲仁 住職
午後1時 前住職ご命日 落語:三遊亭兼好
俗曲:桧山うめ吉
24日(木) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
11月 12日(火) 午後1時 開基・中興法要・相続講 法話:未定
12月 12日(木) 午後1時 成道会(お釈迦様の命日) 法話:織田 慶雄 師
10日(火) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
2025年(令和7年)
1月 12日(日) 午後1時 修正会 奉讃会 法話:堀田 護 師
20日(月) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
2月 11日(火) 午後2時 こどもほうおんこう「人形劇」 とんがらし
12日(水) 午後1時 報恩講 法話:安藤 伝融 師
13日(木) 午後1時 報恩講 法話:堀田 護 師
3月 12日(水) 午後1時 聖徳 太子会 奉讃会 法話:伊奈 祐諦 師
4月 12日(土) 午後1時 永代経・蓮如忌 法話:小谷香示 師
5月 12日(月) 午後1時 定例・奉賛会・宗祖誕生会 法話:戸田 恵信 師
6月 12日(木) 午後1時 前々住職御命日 法話:戸田 栄信 師
7月 11日(土) 午後1時 お盆会 法話:戸松 憲仁 住職
12日(日) 午後1時 お盆会 法話:藤井 義尚 師
8月 12日(火) 午後1時 盂蘭盆会 法話:青木 馨 師
13日(水) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
14日(木) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
9月 12日(金) 午後1時 彼岸会 法話:梛野 明仁 師