神戸の夜の景色を「百万ドルの夜景」とか、お金持ちのことを「百万長者」というように、昔は百万円もあれば本当に大金持ちだったのです。

それが、だんだん物価が上がってきて、今では、百万円くらい持っていても誰もお金持ちとは言ってくれません。

現在、十億円…いや百億円くらいの財産がなければ、とても長者番付には載れないのでしょうね。

 また、国家予算ともなると何十兆円…

ケタがちがいます。

さて、この「ケタ」…「ケタはずれ」なんという言葉があるように、

私たち一般庶民には、

「兆」なんというケタは、

ご縁がありませんから、

使うこともなければ、見ることもありません。同じ「ちょう」でも「蝶」やら「超」なら…春先に蝶々を見たり、「超うれしい!」なんて使うこともありますが……

でも、この先どんどん物価が上がっていって、国家予算も、やがて百兆になり、五百兆になり、さらに、インフレか何かで、千兆になり、九千九百九十九兆になったら、その先は、どうするのでしょうか?

 こういう心配性の方に老婆心ながら申しあげますと、江戸時代の数学者で、吉田光由という人がチャンとそういうことを考えておいてくれました。

兆の上の単位、つまり干兆の十倍は京(けい)、

干京の十倍が垓(がい)、干咳の十倍が秭(し)、干柿の十倍が穰(じょう)、干穰(じょう)の十倍が溝(こう)、干溝の十倍が澗(かん)、干澗の十倍が正(せい)、干正の十倍が載(さい)、千載の十倍が極(ごく)、

最初からもう一度順に単位だけいえば、

 

一、十、百、干、万(104)、億(108)、

兆(ちょう)(1012)、京(けい)(1016)、垓(がい)(1020)、秭(し)(1024)、穰(じょう)(1028)、溝(こう)(1032)、澗(かん)(1036)、正(せい)(1040)、載(さい)(1044)、極(ごく)(1048

となっています。

ちなみに一極というのは、1の次に

ゼロが四十八個ついた数で、この四十八という数は、お経『大無量寿経』の中に出てくる本願【四十八願】の数と同じで、四十八の本願により極楽浄土へ往生できることから極(ごく)と名付けられたのではなかろうかと私は考えます…?

 

 そもそも、いろんな数字の由来がもとを正せば仏教からきていることが多く、

「東海道五十三次」の五十三という数は、

阿弥陀仏以前に現れた仏さまの数…

五十三仏にあやかっています。

だから、四十八という数の元は、本願から来ていると私は考えているんです。

相撲の「四十八手」でも、考えてみれば切りのいい五十手でもよかったのに、わざわざ四十八手にしたのは、この本願にあやかって決めたのでしょう。

 江戸時代の、町(まち)火(び)消(けし)も四十八組

滝でも、四十八滝といいます。

現代ではAKB48というアイドルもいますが…(これは関係ないか!)

さて、ここまでかと言うと、実はまだその上があるのです。極の上の単位は

恒(ごう)河(が)沙(しゃ)、阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)、那(な)由(ゆ)他(た)、不(ふ)可(か)思(し)議(ぎ)、

無(む)量(りょう)大(だい)数(すう)となっています。

実をいうと、このあたりのケタは、みんなお経の中に出てくる言葉なのです。

「恒河沙」とはガンジス河の砂の数ほどのたくさんの数ということ。

「阿僧祇」は、「数えることができない」という意味で「無数」ともいいます。仏典では、成仏するまでに必要な時間の長さを指します。

「那由他」は、「極めて大きな数量」の意味です。

不(ふ)可(か)思(し)議(ぎ)ということ…

それから『正信偈』の冒頭にも出てくる「南無不可思議光」の「不可思議」とは、思議することが不可能ということで、

量(はか)りきれないということ。

思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことで、略して「不思議」と呼ぶことも多いです。

 私たち人間には、はかり知れないことがたくさんあるのです。いや、わかっていることなんて、ほんのわずかなこと、それも確かじゃないんです。

 たとえば、自分のことでも自分ではわからないことばかり…自分は、いつまで生きられるのか?この「いのち」の始まりも、終わりもわからない。

 

明治の学僧・清沢満之師は言います…

「力の及ばざるところは如来の領分なり」

私の「いのち」と思っていたけれど…私のものではなかった。

「いのち」に、生かされて生きている私だった。と気づかれた言葉なのでしょう。

まったく、生老病死は、どれも私の力の及ぶところではありません。

如来の領分…つまり…仏さまのお仕事なのです。私たちは、おまかせするしかないのです。「いのち」のことは「いのち」にまかせるしかない!

…あと、どれだけ生きられるか?なんて考えてみても、答えは出てきません。

 だから、いつ終わってもいいように、自分のできることを精一杯尽くせばいいのです。心配したってしなくたって、必ず終わりは来るのですから…お約束の日が来たら嫌でも往(い)かねばなりません。往くってどこへ?

それが、最後の「無量大数」…「無量大数」とは、無限・永遠ということで、

『正信偈』の最初の「帰命無量寿如来」の「無量寿」と同じ意味です。

永遠のいのちに帰って往くのです。

量ることのできない「いのちの源」…

みんなそこから生まれ、そこへ帰っていく「いのちのふるさと」…そこを「如」

とも言います。

「如」から来たので「如来」といいます。何しに来たか?というと…

私たちが、ちっともこの「如」がわからずに「自分のいのち・私のいのち」と

「いのち」を握りますから、「如」を知らせに「如」から来たのです。 

そして、私たちはそこを昔からお浄土と呼んできたのです。


今後の行事

日/曜日 時間 内容 備考
2024年(令和6年)
毎月 第1(日) 午前6時半 おはよう講座 毎月 第1 日曜日
1月 第2 日曜日
中止第3(木) 午前10時~午後3時半 福遊会 毎月 第3 木曜日
4月 12日(金) 午後1時 永代経・蓮如忌 法話:小谷香示 師
30日(火) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
5月 12日(日) 午後1時 定例・奉賛会・宗祖誕生会 法話:戸田 恵信 師
27日(月) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
6月 12日(水) 午後1時 前々住職御命日 法話:戸田 栄信 師
21日(金) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
7月 11日(木) 午後1時 お盆会 法話:戸松 憲仁 住職
12日(金) 午後1時 お盆会 法話:藤井 義尚 師
29日(月) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
8月 12日(月) 午後1時 盂蘭盆会 法話:青木 馨 師
13日(火) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
14日(水) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
9月 12日(木) 午後1時 彼岸会 法話:梛野 明仁 師
10月 12日(土) 午前10時 秋の永代経 法話:戸松 憲仁 住職
午後1時 前住職ご命日 落語:三遊亭兼好
俗曲:桧山うめ吉
11月 12日(火) 午後1時 開基・中興法要・相続講 法話:未定
12月 12日(木) 午後1時 成道会(お釈迦様の命日) 法話:織田 慶雄 師
2025年(令和7年)
1月 12日(日) 午後1時 修正会 奉讃会 法話:堀田 護 師
2月 11日(火) 午後2時 こどもほうおんこう「人形劇」 とんがらし
12日(水) 午後1時 報恩講 法話:安藤 伝融 師
13日(木) 午後1時 報恩講 法話:堀田 護 師
3月 12日(水) 午後1時 聖徳 太子会 奉讃会 法話:伊奈 祐諦 師