さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし(歎異抄)

 

 昨年、落語家の立川談志さんが亡くなりました。十一月二十一日。七十五歳。

 

「だんしがしんだ」上から読んでも、下から読んでも、「談志が死んだ」…になる。

有名な回文です。

翌日多くの新聞の見出しは、この「談志が死んだ」というものでした。

 

 死後、今まで談志さんの落語に興味がなかったけれど、あらためて聴いてみたいという人が多いようです。

そのためにDVDやCDもずいぶん売れているようです。

  そんな中で、ある人が、談志のお弟子さんにこう訊いたそうです。

「談志の噺がいろいろある中で、どれを聴いたらいいんでしょうか。これが談志だ、と言えるような噺をひとつ推薦してください」と…

そうしたらお弟子さんは「それなら、志の輔の落語を生で聴いてください」

…と答えたそうです。

落語の良さやおもしろさは生で聴いて初めて分かるもの。たしかにDVDやCDで落語を聴くのもいいけれど、それは、ただの記録です。しかし、談志の生きた落語は、志の輔に、志らくに、団春に、団笑に、その他の弟子の落語の中にしっかりと生きているのです。

だから、談志の落語を今聴きたかったら、その弟子の落語を聴いてほしい。

そこに必ず談志は生きている…と

(コラムニスト堀井憲一郎氏の発言より)

 

 私、なるほどと思いました。確かに、私が、東京ではじめて兼好さんの噺を聞いた時に、私の好きな六代目・三遊亭圓生の落語の匂いがしたのです。

どこに?と聞かれてもうまく説明できませんが、噺の端々に圓生さんが顔を出すって感じです。

つまり、昭和の名人・六代目・三遊亭圓生師匠を今聞こうと思ったら、曾孫弟子にあたる兼好さんを聞けばちゃんとそこには圓生の落語が生きているというわけです。

 数年前に亡くなった五代目・円楽師匠

も好楽師匠も(…まだ亡くなってないけど…)ちゃんと繋がっているわけです。

 

繋がったいのち

 このお弟子さんの言葉は、

「いのち」にも通ずるなぁと思いました。

現代人は… 

「私のいのちは私のもの」…と

ほとんどの人がそう思っていますが…。

 

でも仏教では、こう説きます。

「いのちは誰のものでもありません」。

昨日まで「魚のいのち」「野菜のいのち」だったものが、私が食べることによって今日は「私のいのち」の中にいる。私が吐いた息を木々が吸って「木のいのち」になっていく。だから、「いのち」は、一つにつながっているのです。「私のいのち」と私物化できるような「もの」ではなく、「いのち」とは、生まれて、そして、死んでゆくという「こと」つまり、出来事なのです。…と

どこにいった

 親しい人が亡くなった時に、遺された者は亡き方の行き先を案じます。

死んでしまったあの人は、一体どこに行ったのだろう、と…

ある人は、草葉の陰で眠っていると考えます。…

ある人は、天国にいると考えます。…

ある人は、千の風となって大きな空を吹きわたっていると考えます。…

ある人は、思い出となって遺された人の心の中にいると考えます。…

ある人は、死んでしまえばすべて消えてしまうと考えます。…

  では仏教はと言えば、

亡くなった人は「浄土に生まれる」といいます。

浄土と言うと多くの方は「蓮の台(うてな)」というように、蓮の花の咲く、きれいで静かな死後の世界というようなことを連想するかもしれませんが…

しかし浄土はそういう「場所」ではありません。

 

浄土とは、「場所」ではなく「状態」と言った方がいいと思います。

どんな状態かというと、

「解放された状態」です。

つまり、

「人間こうでなくっちゃいけない」とか

「こうあるべきだ…」というような縛りからの解放です

私たちは知らぬ間に自分で自分を縛るようです。

「自分と言うのはこういう人間だ!」と自分を型にはめようとする。決めつけるのです。

でも、実際はご縁次第でどんどん変わるのです。良くもなれば悪くもなる。

「浄土に往く」ということは、「自分」という縛りから解放されることです。

「落語は人間の業の肯定である」。

…というのが、談志さんの名言です。

どうしようもない人間の、どうしてみようもない生きざまを、「こいつは、こういう奴なんだから、しょうがねぇじゃねぇか…」と笑いながら受け入れる。  

ろくでもない人間は、本当は認めたくないけど…「しょうがねぇじゃねぇか…」と「肯定」して、みっともなくしか生きられない人間への共感と言うか、哀れみというか、そこに親しみがあります。

 

そこに私はどうしても親鸞聖人のまなざしを重ねてしまいます。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」…人間ってぇのは、もともと、そんなにリッパな生き物じゃない。欲が深くて、スケベェで、ご縁次第でどんなことだってやってしまう。

愚かな存在。弱い存在。

そんな我が身を隠すことなく、また嫌うことなく、煩悩だらけの罪深い凡夫…これが、「わたし」でありました。

と頷いた親鸞聖人の言葉が先の談志さんの言葉に重なります。


今後の行事

日/曜日 時間 内容 備考
2024年(令和6年)
毎月 第1(日) 午前6時半 おはよう講座 毎月 第1 日曜日
1月 第2 日曜日
中止第3(木) 午前10時~午後3時半 福遊会 毎月 第3 木曜日
4月 12日(金) 午後1時 永代経・蓮如忌 法話:小谷香示 師
30日(火) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
5月 12日(日) 午後1時 定例・奉賛会・宗祖誕生会 法話:戸田 恵信 師
27日(月) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
6月 12日(水) 午後1時 前々住職御命日 法話:戸田 栄信 師
21日(金) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
7月 11日(木) 午後1時 お盆会 法話:戸松 憲仁 住職
12日(金) 午後1時 お盆会 法話:藤井 義尚 師
29日(月) 午前10時/午後7時半 親鸞教室  
8月 12日(月) 午後1時 盂蘭盆会 法話:青木 馨 師
13日(火) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
14日(水) 午後7時 納骨堂 お盆会 寺内勤め
9月 12日(木) 午後1時 彼岸会 法話:梛野 明仁 師
10月 12日(土) 午前10時 秋の永代経 法話:戸松 憲仁 住職
午後1時 前住職ご命日 落語:三遊亭兼好
俗曲:桧山うめ吉
11月 12日(火) 午後1時 開基・中興法要・相続講 法話:未定
12月 12日(木) 午後1時 成道会(お釈迦様の命日) 法話:織田 慶雄 師
2025年(令和7年)
1月 12日(日) 午後1時 修正会 奉讃会 法話:堀田 護 師
2月 11日(火) 午後2時 こどもほうおんこう「人形劇」 とんがらし
12日(水) 午後1時 報恩講 法話:安藤 伝融 師
13日(木) 午後1時 報恩講 法話:堀田 護 師
3月 12日(水) 午後1時 聖徳 太子会 奉讃会 法話:伊奈 祐諦 師